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電気なデンキ。日本初エレキテルの復元を遂げたイノベーター・平賀源内 その3
その3では、発明家から一転、コンサルタント・平賀源内の活躍っぷりをご紹介します。
興味から研究対象へ
幼い頃から源内が強い興味を示していた植物や自然鉱物。そこから彼を鉱山の技術者へと導いたのは、物産会に秩父の中島利平が出品した石綿でした。石綿は燃えない布である「火浣布(かかんぷ)」を原料とするもの。源内はこれを求めて秩父鉱山を歩き回り、1764年に中津川村山中にて発見します。また、中津川渓谷付近では、このほかにも金銀銅の鉱脈、鉄鉱石など、源内の好奇心を駆り立てるものが次々と発見されました。
どんな失敗にもめげない。
鉱山開発の第一歩は、古い金鉱山の再発掘からでした。しかし、中津川で金鉱を掘ったものの金は出て来ず、1772年には中津川で砂鉄を集めて鉄山事業に着手しようと試みます。ところが、製錬技術が未熟であったためうまくいかず、うまくスタートしたように見えたものの最終的には休山に。そもそも、鉱山開発は専門家が行ったとしても当たるのはごくわずかな確率です。つまり、挑戦したこと自体が、イノベーターとしてのあるべき姿勢だったと言えるでしょう。
コンサル事業で大成功!3つの事例
その後も源内の挑戦は止まることを知りません。古い鉱山の再利用の波に乗り、徐々にコンサルタントとしての才能を開花させていきます。 ・多田鉱山 兵庫県猪名川町 1772年の夏ごろ、源内は多田銀銅山を訪れ秩父での鉱山開発の経験を活かします。「此間、多田銀山銅山見聞いたし候、さてさておびただしき儀驚目申し候(中略)水抜工夫いたし申し候」などと書いた書状が残っており、この折に来訪し、坑道の排水を工夫したようです。現在においても、源内が指導をしたという水抜き穴、坑道が残されています。その約100年後、最後の銀山役人秋山良之助が頭痛・肩こりなどに効くというエレキテル(源内が復元製作の摩擦起電機)を使ったそう。 ・阿仁銅山 秋田県北秋田市 1773年、銅山経営に行き詰まった秋田藩は、幕府直営の多田鉱山や中津川での実績を持つ源内を招聘します。源内と共に石見銀山の鉱山士である吉田理兵衛が阿仁鉱山を訪れ、銅の精錬法を聞き出すと、この方法は銅の中に銀が残ったままになるので、大阪の商人たちが阿仁銅を含め秋田銅を珍重がるのだと理解したようです。彼らは同地に滞在して銅山経営の立て直しをはかります。問題点を見抜いて精錬法を改良し、阿仁の産銅から銀を絞り出す技術(銀絞り法)を伝授、その後、秋田藩は幕府の許可を得て1774年に能代市(旧二ツ井町)の加護山に精錬所を設け、阿仁の産銅から銀の抽出を開始しました。また、良質な粘土を阿仁で発見した源内は、「水無焼(阿仁焼)」を指導するなど、新たな知識と知恵を伝えたと言います。現在でも水無焼のお皿2枚が残っているのだとか。 ・院内銀山 秋田県雄勝群 日本国内でも屈指の銀山としてその名を知られていた院内銀山。江戸時代の鉱山技術を知るうえで貴重な文献である『鉱山至宝要録』(著者は黒沢元重)には、1773年に、「江戸から当地に平賀源内らが訪れて数日逗留し、鉱石の採掘法・製錬法などを伝授していった」という意の覚書が残されています。当地とは院内銀山のこと。院内銀山は1817年に秋田藩直営の銀山となり、1830年から明治時代まで豊富な銀を産出しました。この地でも、源内はしっかりと足跡を残していったようです。